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2012年04月28日

空手を本土に伝えた「船越義珍」

自分を含め、多くの空手人は、もしかしたらこの人のお陰で空手に出会えたといっても
いいかもしれません。
沖縄で生まれた空手(唐手)を本土に初めて持って来た人が
「船越義珍(ふなこし ぎちん)」先生です。
空手を本土に伝えた「船越義珍」

1868年沖縄(琉球)生まれの船越先生は、未熟児出産だったようで幼少時は身体も弱かった
ようです。その後16歳で唐手と出会い、始めるのですが最初は那覇手だったようです。
華奢な体つきだった船越先生はわずか3ヶ月ほどですぐに首里手へ変えました。
主に安里安恒、糸洲安恒という首里手の大家に教わったようです。


大正11年(1922年)5月、文部省主催の第一回体育展覧会において、本土で初の唐手演武を行いました。この時の演武は、柔道の嘉納治五郎など、本土の武道家の注目を大いに引きました。翌6月にも講道館に招かれて、嘉納治五郎をはじめ200名を超える柔道有段者を前にして、唐手の演武と解説を行いました。船越先生はそのまま東京に留まり、唐手の指導に当たることになったようです。


先生は、形の修行を重んじ、自由組手は「空手にあらず」として弟子にもさせなかったそうです。
そして「唐手」だった呼び名を般若心経の「空」の考えをとって「空手」と変えたのも、
そして「空手術」だったものを「空手道」へ、武術から武道へ変えたのも船越先生です。
とにかく、「精神修養のための空手」という事を重視した人だったのです。


ですが弟子の中には形中心の修行に反発して、出て行く弟子もいたようです。
(和道流開祖の大塚博紀や小西康宏などがそうだったようです)


本土の空手は、大日本武徳会においては「柔道」の分類下におかれていたこともあり、別化のために打撃技法に特化し、併伝の棒術や節棍術(ヌンチャクなど)などの武器術も取り除かれました。型の立ち方や挙動を変更し、型の名称も、新たに日本風の名称に改める流派もありました。さらに、沖縄から組手が十分に伝承されなかったため、本土で新たな組手を付け足したものも多かったようです。
これが結果的に流派の乱立を招いたという見方もあるようです。


船越先生は事実上、本土の4大流派の一つ「松濤館(しょうとうかん)流」の開祖と
なっていられますし、日本空手協会という巨大組織のトップでもあります。
自由組手を嫌い、後世に残る派手な武勇伝もない方なので「その実力やいかに?」
という論調の書籍等が見られますが、本土への空手の普及においてこの先生の右に出る
功績を残した人は少ないでしょう。
それが「近代空手の父」と呼ばれる所以なのかもしれません。

空手を本土に伝えた「船越義珍」


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