なぜ、空手の形を果てしなく繰り返すのか?
以前の記事でも書きましたが、身体にしみ込ませる為、つまりは
脳で判断し、考えるという工程を経る事なくオートマチックに身体が反応する
事を目指したものです。
「無意識のうちに手足が動く」という状態が、いわゆる目指すべき到達点の一つです。
以下は
元プロ陸上選手の為末大選手のツイッターで書かれた内容です。
@daijapan: 競技をする時細部から離れてぼんやりすればするほど動きは滞りが無くなっていった。昨日、卓球の平野さんと話をした時もぼんやり眺めた方が自然に反応すると言っていた。スポーツのような高速で反応しなければならないものは、意識的な自分より無意識な自分に身体を明け渡した方がうまくいく事が多い
人は誰しも、意識し出すとおかしくなる、とかうまく出来なくなってしまった、みたいな経験が
あると思います。普段は何も考えずサラッとやれる事なのに。
例えば歩く時、右足を出すと同時に左手を前に出すぞ〜、と意識して歩けば間違いなく普段より
ぎこちない歩き方になります。
緊張したり、意識する事で柔軟性を欠いたり滑らかな動きが出来なくなるのは人間の大きな
クセというか、構造がそうなっているようです。
さらにもう一つ。
人は、”視点”を何処にも合わせないと、感情が定まらないのです。
例えばボーッと宙を見ている状態で怒ろうとしても出来ません。
同時に嬉しくもさみしくもなれない。
だから坐禅で禅定状態に入る時、何も考えずに入りやすくする為には
視点を定めず、なんとなく目をぼやかしてぼーっとする事で禅定状態に
入りやすい事も知られています。
何かにフォーカスする、という事はつまり、それ以外の事への対処が
どうしてもおろそかになる。
多様な対応を瞬時でしなければいけない場合、その”何か”が来れば対応は
早いが、その”何か”以外がくる方が多い訳です。ましてや武道の場合は、
やるかやられるか、を決める訳ですからヤマを張る訳にはいきません。
相手と対峙した時、
「やってやるぞ!!」「来るか?来るか?」
という集中、殺気、やる気満々の意気込みで臨むより、ボーっとして身体にその対処を
任せる方がいいとは、なんだか不思議で面白いものですね。
あ、運転とかは、集中してお願いします(笑)。